何の不安もなく、平和に暮らしていた島の人たちは、アメリカによる史上最大の水爆実験に
遭遇することになった。
そして、身体的障害を受けただけでなく、島の生態系をめちゃくちゃに破壊され、
その後、島を捨て、流浪の生活をしなければならなくなった。
これは、水爆実験で全人生を狂わされた海の民の物語である。
♪幾つもの連なる島々 真珠の首飾り
風にそよぐココヤシの葉音 サワサワと歌う
あぁ 私の島 生まれ育った 楽園
青い海に広がるその姿 私達の故郷(くに)
青空にはえる白い花びら甘い香りのプルメリア
それは 私達の先祖からの 贈り物 ♪
1954年のある日曜日の朝、ロンゲラップ島の村長ジョン アンジャインら島民たちはいつものように村の教会での礼拝に向かうのだった。
その日は島で一番の行事であるケーメン(子供の一歳の誕生祭)の日であり、その他にも次々と“島の子たち”が誕生する話で大賑わい!日本に支配されていた戦争から解放され10年、全く平穏で幸福な日曜日の出来事だった。ところが、米軍から突然の通達で、ビキニでこれまでの100倍の威力の爆弾実験をやるという。
「避難させてほしい」と言う島民に向かって、島に来た政府の役人は指の先をつまんで笑いながらこう言った。「避難はしない、お前たちの命はどうせこれだけだ」…と。
それから2週間後、水爆ブラボー爆発。島民は被ばくし、3日後になってやっと避難させられる。
しかし、避難先の島では、信じられない事にアメリカの医者は検査をしただけで何の治療もしなかった。
島民たちは、体調不良や、脱毛、火傷などで苦しみながらも3年後には帰島させられる。
ところが、約3年間無人だったその島は、恐ろしい「ポイズンの島」に変わっていたのだった…。
島民に次から次へと恐ろしいことが襲いかかる。
甲状腺障害や、成長が止まった子供の姿、そして流産や、異常出産、大人にも癌や白血病などが多発する。
ところがアメリカの医者は、症状を記録するだけで一切の治療をしようとしない。
いったい自分たちの体に何が起こっているんだ、と憤る島民達は、不安と絶望の中で、連日話し合いを重ねる。
「島を捨てるか、このまま島にいて病気になるのか」
「でもいったいどこへ行けばよいのだ!」
話し合いは数年にも及んだ。
水爆実験から28年目、アメリカエネルギー省が核実験の影響について調べた本を出した。それを手に入れた島民は驚愕の事実を知る。
そこには「ロンゲラップには、ビキニと同じぐらいのポイズンがある」と書いてあった。
「自分たちはアメリカに人体実験をされていんだ!」
「なによりこのままでは子どもの未来が心配だ!」島民たちは、自ら島を出る決心をする。
1985年5月、島を出る日。
島民は教会の前で記念撮影をし誓った。
「またいつかこの教会の前で会おう」…と。
※2015年現在、ロンゲラップ島民は未だ帰島を果たせず避難先で苦しい生活を強いられています。ブラボー当時被ばくした島民達の多くは、この世を去りました。
しかし彼らの子、孫たちはその遺志、志を受け継ぎ世界各地で訴えを行い、公聴会などでも証言に立ち、2014年4月、9つの核保有国に対してNPT(核不拡散条約)違反で国際司法裁判所に提訴。
※3,11の震災後には、同じ「核の難民」である福島に2万ドル(約240万円)の寄付を行いました。
島を出る日(写真:島田 興生)